マナスルで得たもの/野口健

 第二次世界大戦が終わると、ネパールは長い鎖国を解いた。それはヒマラヤ登山の新時代の幕開けでもあった。それまで行なわれてこなかった南面からのヒマラヤ登山が開始されたのだ。 50年には早くもフランス隊がアンナプルナT峰に初登頂。人類初の8000峰の登頂だった。53年には、イギリス隊がエベレストに登頂し世界的なニュースとなる。さらには、54年にチョーオユ、55年にマカルーとカンチェンジュンガが、先進諸国によって次々と初登頂された。
 そのように苛烈な高峰登頂ラッシュの中、1956年に日本隊がマナスルに登頂。
 その年は「もはや戦後ではない」とメディアが報じ、日本は経済成長の兆しを見せ初めていた。世に言う神武景気の始まりである。そこに飛び込んできた「マナスル登頂」のニュース。先進諸国と肩を並べられたような興奮があったのではないだろうか。
 冷めた現代を生きる僕たちには、当時の国民の一体感や「熱」をリアルに想像できない。おそらく当時は、「熱い」時代に必死についていくことで、生きている意義を見出せる時代だったのではないだろうか。
 景気が低迷した現代に生きる僕たちは、時代に興奮を貰うことはできない。情熱的な経験を積みたいのならば、個人で何かを探さなくてはならない。
 僕にとって「熱」をもらえるもの、それは山だった。18歳でネパール・ヒマラヤを訪れて以来、毎年のようにヒマラヤに通った。25歳でエベレストに登頂してからは、4年連続でエベレストの清掃を行なった。
 06年にエベレストからマナスルに清掃活動の場所を移したのは、あるエピソードがある。

 最後のエベレストの清掃を追え、ほっとしながら記者会見を行なったときのことだ。ネパール人記者から「ケン、ネパールでは日本人が登頂したマナスルをジャパニーズマウンテンと呼ぶのを知っているか?」と聞いてきた。そして、彼はこう続けた「そのジャパニーズマウンテンが汚されている。お前は日本人としてどうするつもりだ」
 その時の僕はエベレスト清掃を追えて疲弊しきっていた。正直、高所に行くのは、当分休みたかった。おそらく僕のなかで「熱」が少し冷めていたのだろう。彼の質問には、即答できなかった・・・・・・。 再び熱が入ったのは、翌年、ふらりとネパールを訪れた時だった。王室のクーデターやマオイストのテロ活動など、ネパールは内戦状態に近くなっていた。カトマンズでは外出禁止令が発令され、エベレスト清掃活動で苦楽をともにしたシェルパから
「ケン、もうネパールはもう環境問題どころじゃないよ」
と言われた。犠牲者まで出しながら続けたエベレスト清掃活動はいったいなんだったのか・・・・・・。
 カトマンズの安宿で、数日間、僕は落ち込みながら考えた。そこで頭に浮かんできたのは、「ジャパニーズ・マウンテン」のことばかりだった。
 戦後の復興期にマナスル登頂は、日本人にエネルギーを与えのだと思う。だとすれば、今、苦しいネパールに僕たち日本人は何か恩返しをするべき時なのではないだろうか。僕にとって、ネパールは第二の故郷。僕が何かアクションを起こさなくて、誰がやるのだろうか。そして僕は、マナスル清掃を決断した。

 2006年5月、僕のマナスル清掃は、初登頂からちょうど50年目に行なわれた。半世紀も前に登られたマナスルは、しかし、現代のハイテク登山装備を持ってしても困難を極めた。大雪に阻まれ、ベースキャンプを設営するのもやっとのありさま。積雪量は2mを越えていた。そんな状況で、「このあたりにゴミがあるだろう」と推測しスコップで雪を掘り続ける。その光景はまるで雪崩の救助活動のようだった。ある時には、20人で2時間以上掘り続けチョコレートの包み紙1枚と言うこともあった。ゴミがあるのはわかっていながら回収できないもどかしさ。そんな日々が続いた頃、シェルパの一人が雪の下からまとまったゴミを発見。まるで井戸を掘り当てた砂漠の民のような彼の笑顔に、皆が爆笑。ゴミ拾いというよりゴミ捜索といったスタイルで250キロ程のゴミを回収した。
 そして、もうひとつの目標であったマナスル登頂に、登攀体長の谷口ケイさんが成功。「けんさん、マナスルに登ったよ」とのケイさんの声が無線機から聞こえてきた時には、感動のあまり涙がでた。 最後に驚いたのは、清掃登山を終えマナスル山麓のサマ村に戻って来たときのこと。村のあちらこちらに手作りの日の丸が掲げられ、村人約150人が集まっている。そして「日本人が私の山を綺麗にしてくれた。次はわれわれの番だ」との掛け声でサマ村の一斉清掃活動が行なわれたのだ。
 「環境保護」という概念が薄い村にゴミは多かった。わずか半日の活動で集まったゴミは5トンにも及んだ。
 清掃後、村長は「日本人のマナスル初登頂は、日本社会に大きな夢を与えたと聞いた。それから50年、今度は日本人がマナスル清掃活動を行い私たちに夢を与えてくれた。これからはゴミの日をつるり毎月清掃活動をする」と発表してくれた。
 その言葉が、マナスル清掃活動に情熱を懸けた僕たちへの一番のプレゼントだった。
 自分が情熱を持って何かに取り組めば、どこかで何かの反応は帰ってくるものだ。そう強く思った。

マナスル初登頂から半世紀。国家規模でのヒマラヤ挑戦が無くなったことが象徴するように、現代は、国民全体での盛り上がりが希薄になってきている。 しかし、それだからこそ、個人の純粋な情熱と向き合える時代なのかもしれない。 国民全体が発展という「夢」に向かって邁進する一体感はなくなったが、「夢」は個々人の手にもどされ、それぞれのこだわりを最大限に活かせる時代になったのではないだろうか。
そして時に、個人の夢は、人を動かし、世の中をより良くしていく力がある。 そんな想いを胸に、僕は今も山で活動を続けている。07年、再び僕はエベレストに舞い戻った。そして、北面からこの世界最高峰に登頂することができた。情熱はまだまだ終わらない。