ヒマラヤの氷河湖に対してやりたいこと/大森弘一郎

 会報7号が近く発行されますが。そこに書いたものをホームページ用に判り易く直します。
 会報3号の写真頁の3頁目、会報5号の144頁の報告から続く話です。いずれも氷河の縮小に注目したものです。この会報をご覧になりたかったら、有楽町のさえずり館の書架においてありますからご覧ください。もう一つの方法は入会下さることです。会員にはお配りしています。

 氷河の縮小が示すものは地球全体の温暖化です。その影響はヒマラヤの局部にだけでなく広く地球全体に及びます。
 名古屋大学の藤田耕史准教授は、ヒマラヤの氷河の全体を調べようと、2007年の11月に朝日新聞の社機でネパールの東から西まで全域を飛んでいます。朝日新聞の写真部の武田剛記者はその時写した膨大な資料の整理に今追われているそうです。慶應義塾大学の福井弘道教授はローツェの南にあるイムジャ氷河湖に観測機器を備え付けてきて観測を開始しています(デジタル・アジア構想の一環としての監視作業)。
 実は、今回この問題が急に我々の身近に接近して来ました。  ご覧になった方も多いと思いますが、昨年(2007年)12月の朝日新聞に、ヒマラヤの氷河の後退と氷河湖の拡大が進んでいるという記事が掲載されました。前回のホームページでもご紹介したものです。氷河の後退を地球温暖化の指標として捉え、その直接被害に対しての対策をとろうというものです。
 ここにある直接の被害とは会報5号で書いた、シッキムの氷河湖の写真にある現場の通りです。氷河の氷が融けると湖ができます。或るときその氷河湖の貯蔵する水量が急増して、水圧でモレーンが決壊して一度に土石流となって流れだすことがあります。下流の村が消えるほどの被害を人々に及ぼすことが最もこわいことです。
 その消えた湖の写真をご覧ください。下の写真の左は、1918年に鹿子木員信氏が写したツォ・カップと言う氷河湖の写真。2005年に、この上部の氷河の変化を見ようとここに行ったところ、どうしても湖がなく、ふと気づいたら自分はその湖底を歩いていたというものです。ここは花崗岩の奇麗な真砂が平らに敷き詰められていました。下右の写真がそれです。

 

 その決壊口は下の写真のように奇麗なV字型をしていてその深さは写真の左上に写っている人(↓印)の大きさから推定すると100mぐらいもあります。

 実は私は1992年の4月に、チョーユーから流れるゴジュンバ氷河の末端の写真をかなり克明に上部から写していました。下の写真がこれです。

 昨年暮れの調査の計画を知ったとき、私なりに自分の氷河の写真(これは会報7号をご覧ください、地形と成り立ちの経過で色んな氷河湖が出来るものです)を調査に活かして貰いたいと連絡の手を尽くしたのですが、朝日新聞の行動の方が早くてそれは出来ませんでした。しかし12月25日に掲載された写真(ホームページの右の写真)を見て、自分が昔に写したものの中に同じ場所が有ることに気づいたのです。それが左の写真です。今からでも役立てたいと武田記者とお会いし、これを活用するお約束をしました。
 ホームページの写真の左と右を見て下さい、重ねることこそ出来ませんが、かなり一致して現場の変化が判ります。相談もしないのに上手に重なっています。確かに氷河湖(池)は成長しています。左の写真の下の部分の写っていない所には未だ池は無かったのです。反対方向から見た上の写真で確認してください。下の写真には池の成長の線を入れてみました。

 新聞の記事には、これは氷河湖の卵であり、氷河研究の一人者の北海道大の元山田知充助教授の言として、これはいずれ大きな氷河湖に成長するだろう、とあります。これの成長を記録調査するのも学問的には意味が大きいでしょう。氷河の中は氷と粘土と岩でしょう。移動してモレーンを作るのを、止めた氷が融けて湖になるのかも知れません。丁度見つけた下の写真はゴジュンバ氷河に氷河湖が出来た時の未来の姿とその下部の流れの様子を見るみたいです。私たちはまず身近な被害を防ぐことこそ使命のように考えました。

 始めの写真をもう一度ご覧下さい。これは2005年4月に、鹿子木員信氏が1918年に写したパンジュムの氷河の変化を見ようとして、ゴーチャラに行った時のものです。その時に氷河の後退は解ったのですが肝心の氷河湖は有りませんでした。決壊して消えたのだ、と理解するまでには高所の影響を受けた頭には少し時間が必要でした。ツォ・カップという氷河湖は1991年に決壊して無くなっていたのでした。その痕跡が、写した多くの写真に記録(略)されていました。この時にもっとここに留まり調べたかったのですが、調査の計画を持たない先を急ぐトレッキングの途中ですから、この程度の記録で終わってしまいました。
 この湖底の寸法を伊能忠敬にならって歩測で計った数は、いつの間にか高度障害の頭から消えてしまっていました。手のひらにもメモしていたのですがいつの間にか消えていました。しかしV字形に切れた決壊口(3番目の写真)から深さが推定出来ます。湖の面積は解らないのですが、歩いて横断が20分ぐらいだった記憶から、仮に1kmだったとし巾も同じだったとし、水深が100mだったとすると、その一時に流れた水量は1億m3になります。1991年(日付不明)のことだと言います。これが一時に下流に押し寄せたと言いますが、それがどれくらいの時間であり、どのような被害であったのか。下流のヨクサムで詳しく調べることが出来なくて残念でした(もう一度調査目的で行きたい)。
 ローツェの南麓のイムジャ氷河湖(福井弘道教授)や、マナスルから伸びるツラギ氷河(藤田耕史准教授)の末端の29年間で約2倍に拡大した氷河湖(朝日新聞2007年12月25日)があります。恐らく現在は氷河が融けて出す水量と、地下水脈と溢れる水とはバランスして今の状況を保っていると思われますが。温暖化が急速に進めば水位が上がり(圧力が増える)、水分を十分に含んだ粘土と石が積み上がって出来ているモレーンが、水圧に耐え切れずに決壊することがいつか起きるでしょう。グーグルアースの写真から推定すると、ディンボチェの奥、ローツェの南麓のイムジャ氷河湖の面積は約1km2で、もし水深が同じだとするとゴーチャラの消えたツォ・ゴ湖と同じです。決壊した時が怖いです。
 それを未然に防ぐのは、堤を強化するか水を抜くことでしょうが、山奥で絶対失敗しないでこれをやるのは、どちらも至難の業だと思われます。 また人が何かを行って、それが有効であったかどうかは別として、いつか決壊が起きたら、そのやった作業が原因だとされてしまう可能性が高いのです。

 ではどうしたら良いでしょうか。ゴジュンバ氷河の現場を、私は見て(自分で写して)知っている人間です。 大きく成長した氷河は別として、出来始めの場合は、氷河湖が大きくなる前に、水抜きの路を深く作っておき、氷河湖が大きく(深く)成長するのを防ぐことだと考えます。動脈瘤が大きくなる前に通りを良くするのと同じような予防策を取るのです。  その氷河湖が出来て、決壊するメカニズムを絵にして見ました。下の図がやりたいことです。

 こんな都合の良いことが出来るでしょうか。現地に重機を持ち込むことは、我々の力ではまず出来ないでしょうし、5000mの高所で動くエンジンが必要です。まず下流域に住む村民の理解と協力で人力でやるしかありません。その住民に継続した観測を頼むと同時に氷河湖警戒の意識を植え付けるのです。行って見なければ解りませんが、写真からの計測で考えるなら、今の小さな池(湖?)なら、水路の拡大をしても、危険の小さい状態で出来ると考えるのですがどうでしょうか、粘土と岩と氷を相手に出来るでしょうか。
 写真に見える一番大きい池は直径100mぐらいのようです、深さは現場で測らなければ解りません、さらにその上に新しい池が出来ています。一度出来た水路はあまり変わっていないようですが、水路をどう直すか。またモンスーン直後がどのような水量であるかも解りません。ここからゴーキョピークの方に向かって、サイドモレンーンの外側に5つの湖が並んでいます。これは氷河と地下水脈でつながっているように思われます。これが氷河の底の水位かも知れません。それにも良い影響をもたらしてくれると良いのですが。また小さな池も深くなると地下で繋がっている可能性があります、こうだと好都合なのですが。
 空撮で見える小さい砂の山は、行って見たら粘土と岩が氷で固められた、手に余る岩塊の山かも知れません、うまくやれるでしょうか。  まず出来始めた幾つかの池の大きさ、水深、温度、そして水位差を測りたい。これは水路でつなぐ時の流れを考えるためです。そして小さく手を加えてうまく流路が広がる方法を考えたい。幸いすぐ西にチャドテンという尖った山(5065m)があります。定点観測に絶好の場所です。
 自分が写していた昔の写真に重なる15年後の写真が偶然に得られました。氷河湖の決壊現場も見て来ています。それらの情報の集積を一人で知りながら座視する訳には行かない。今そんなことを考えています。
 私たちは日本の氷河地形から、氷河に関心を持って来た者たちです。その氷河が終わって消えている氷河が残してくれた美しい痕跡と、今まさに動いていて人々に影響している氷河の氷河湖とどちらが人間にとって重要でしょうか。
 私はやりたいと思いますが広く同志を募ります。ゴーキョに登るよりよほど面白く、人の役に立ちますよ。(T:045-833-5738 E:zero@qb3.so-net.ne.jp)  今年(2008年)の雨期が終わる10月が、水量も多い作業と調査の機会です。想定される行動を書いておきます。だいぶ期間が長くなりますが、高度順化も考えねばならないし、やはり遠いし、作業が有るから3週間はかかるでしょう。

(行動計画)
1日目:成田→デリー
2日目:デリー→KTM 準備
4日目:KTM→LUK→パグディン
5日目:→ナムチェ
7日目:→キャンツマ
10日目:→バンガ→上部調査→ナラ
11〜14日目:現場調査と作業
15日目:ナラ→ドーレ
16日目:ドーレ→シャンボチェ
17日目:→バクティン
18日目:→ルクラ
19日目:ルクラ→KTM
21日目:KTM→デリー→成田(翌朝)